海外生活で遭遇した驚きの人間ドラマ

海外で暮らしていると、
時々面白い事件に出くわすことがある。

テーメーカフェ・午後十時

事件ではないのだが、数年前に「世界は狭いなぁ」と思うような出来事があった。

コロナ前の事だからバンコクで暮らすようになってから3年ほど経った頃だと思う。

スクンビット通りのソフィテルホテルの隣の
「東南アジアで最も有名な出会い系カフェ」
であるテーメーカフェの周りには、
夜10時頃になると夥しい数のストリートバーが店開きを始める。

客の半分位は夜のお姉さん達が腹ごしらえをしたり、休憩がてらにビールを飲んだりしているのだが、それを目当てに集まるお客もたくさんいる。

バンコクの夜と知られざる人々

3年近く夜遊びを続けていると
さすがに飽きてしまうので、
その頃はナナプラザやカウボーイなどには全く立ち入らず、殆ど毎晩こういったストリートバーで飲んでいた。

その頃に行きつけだった一軒の店で、
私よりもはるかに前から通っている常連の多田さんという大先輩がいた。

正確な年齢は聞いたことがないが、
元々は金沢でカラオケバーに音響機械などを納入する仕事をしていて、今はリタイアしてバンコクに住んでいるのだという。

その店から歩いて20分ほどの、
ソイ22の日本人向けアパートに住んでおり、
毎晩スクーターで通ってきていた。

営業マンだったせいか話も上手で、
お酒を飲みながら、
いつも面白い話を聞かせてくれた。

タイ語も堪能で、いつも彼の周りには夜系のタイ人や日本人がたくさんいて、
時には「少し怖い人」も集まったりしていた。

ある時、ふとした弾みから
「この人知ってる?」とスマホの写真を見せられたことがある。

仙台からフィリピンへの逃亡者

ちょうど私が高級外車の修理の仕事で知り合った仙台の耳鼻科の先生の話をしていた時だ。

私のクライアントには開業医の先生方も多く、
どなたも相当なお金持ちで、高級外車を何台も持っている方がたくさんいた。

「この人もお医者さんで、仙台だよ。知ってる?」、「赤城先生って言うんだけど、今は引退してフィリピンにいるんだけどね」と話してくれた。

海外でいろいろな話を聞く事はあるが、
この時ほど驚いた事はない。

なんとその「赤城先生」は、
本名は「明石」先生といって、
夜の仙台では有名な先生だったのだ。

1990年代のバブルが華やかなりし頃、
仙台には何10軒ものフィリピンパブがあり、
明石先生は国分町では知らない人がいないほどの有名人だった。

家は二代目か三代目の耳鼻科医院で、
定禅寺通りから青葉城と反対側に少し入ったあたりに四階建ての自社ビルがあり、
そこで耳鼻科を開業をしていた。

明石先生の過去と現在

先生は学生時代から手品に凝っており、
その腕前はプロ級で、
国分町では有名だった。

 

確か1992年か93年頃だったと思うが、
フィリピン人の彼女をママにして、
自分もそこで手品を披露するという
オシャレなマジックバーを開店した。

ここまでは盛り場によくある話なのだが、
その店は2年も経たずに閉店してしまい、
いつの間にか先生も国分町から姿を消した。

実は明石先生はバカラにはまっており、
闇カジノで数億円の借金を背負っており、
クリニックのビルも抵当に入っていたそうだ。

ところがバブル崩壊でビルの評価額もぐんぐんと下がってしまい、その債権が悪い取り立て屋さんに回っていたようだ。

その後の噂で、明石先生がフィリピンに飛んだというところまでは聞いていたのだが、
まさかバンコクで、全く縁もゆかりもない多田さんから「この人、知ってる?」と言われるとは思わなかった。

海外での意外な繋がりと闇世界

多田さんの話では、「前はココにもよく来ていてね、オーバーステイで強制退去になったんだよ」ということだった。

そして、その後の言葉が衝撃的だった。
「彼はロリでね、我慢できないんだね」
というのだ。

多田さんが見せてくれたスマホの画面には、
白衣姿の明石先生が写っていて、
明らかに小学生と思われる身長150センチ位の女の子の肩に手を置いていた。

「彼ね、ボランティアで学校検診やってるんだよ」「フィリピンの田舎は、まだお医者さん少ないからね」というのだ。

そして、極めつけの言葉は「元々はフィリピンを追い出されてタイに来たんだから、どうやって入ったのかわかんないね」、「多分ね、臓器とか、何か悪い仕事してるかもしれないよ」というのだ。

私の海外生活も10年以上になり、
普通の人よりは色々と怖い話や変な話を
聞くこともあるが、これには驚いた。

東南アジアの闇を見たような気がする。
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