大連旅行の歴史散歩

2010年の10月に初めて大連を訪れた。

母が子供の頃に中国東北部のハルビンに住んでおり、満州国や中国の東北部には昔から興味があった。

初めての大連訪問

大連市は黄海に伸びる遼東半島の先端に位置する港町で、日本の傀儡国家として建国された満州国とは別の日本の租借地だった。

もともとは、中国の清朝がロシアの圧力に負けて露清条約という領土租借条約を押し付けられ、ロシアに25年間の租借を認めた街だ。

その後、日露戦争によって日本がロシアから租借権を引き継ぎ、当初は1923年条約が失効する決まりとなっていた。

しかし2011年の辛亥革命により清朝は滅亡し、その後の中国の内乱や混乱に乗じた日本政府が、世界史では有名な「対華21カ条の要求」を突きつけて、有無を言わせず租借期限を1997年までの99年間に延長した経緯がある。

ヤマトホテルと旧三越百貨店の名残

1945年の日本の敗戦によりこれらの条約は全て無効となったが、当時の租借条約は香港やマカオと同じようなものだったのだ。

その頃の大連は、三越デパートとか大連第一中学などがあり、日本人街と呼ばれる大連の中心部には常磐町とか弥生町等の名前がつけられ、日本そのものだったらしい。

2010年の10月に私が泊まったのは有名な大連ヤマトホテルで、満州国や20世紀前半の日中の歴史に興味のある人ならば、いちどは泊まってみたいと思うホテルだ。

大連の歴史的背景

ネットで調べてみると、大連という街の名前の由来は中国ではないらしい。

最初にこの街を装着したロシアが、「遠いところ」という意味のロシア語であるダーキニーと呼んだのが大連の名前の由来らしい。

ロシアが最初に入植した青泥窪(チンニーワー)という湿地帯の名前は、今でも大連の中心部に残っている。

ロシアはこの街を、ヨーロッパの大都市に負けないような極東の拠点都市として建設し、街の中央には中山広場という有名な円形広場があり、そこから放射状に道路が伸びている。

ヤマトホテルはその円形広場に面して建てられており、当時の東アジア随一のホテルと言われていたようだ。

1910年代に建てられたホテルなので、私が泊まった時は「古色蒼然たる雰囲気」は否めなかったが、それでも歴史の大舞台に泊まることができた事は感動ものだった。

旧三越百貨店も古い資料に残っていると同じ形で残っており、当時は秋林百貨店という名前で営業していた。

社会主義市場経済の現場

店内に入ってみると、「これがデパート?」と思うほど閑散としており、商品も陳列も、「社会主義による物質至上主義へのアンチテーゼ」と思わざるを得ないようなものだった。

それ以上に驚いたのは店員たちの態度だった。

お客の数や商品の数に比べて、無駄に大勢の店員がいるのだが、話しかけてくるわけでもないし、商品を勧めようともしない。

全員が壁に寄り掛かったまま、おしゃべりをしたりタバコを吸っている。

中国が全国的に禁煙を義務づけたのは2015年頃で、この頃にはデパートの店内でタバコを吸っている店員がいたのだ。

1992年に社会主義市場経済を取り入れ、中国は資本主義の道へ舵を切ったのだが、実際の現場はこんなものだった。

その頃に店内にいた従業員の年齢を、仮に25歳とすると1985年生まれとなり、親の世代は1950年代になる。

この世代は文化大革命の頃に紅衛兵として「大活躍」をした世代なので、資本主義や物質文明に対して極端なアレルギーを持っている。

その子供の世代に、接客とかサービスという概念が普及するまでには相当な時間がかかったに違いない。